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2011.11.15 発想法&思考法部

自分史メモを作ることで思考・発想のクセを探る

自分の思考や発想のクセを知ることで
人付き合いや仕事の進め方などの自分らしい特徴を掴んでおくと
なにかと生きやすくなると思う。
<いい・悪い>ではなく<AかBかCかDか>、
つまり<どちら方向?>を把握しておこうということ。
とはいっても、わかっているようでわかってないのが自分。
自分の心やパーソナリティを客観視することがなかなかできないから
人間社会の軋轢やら悲喜交々があって滋味深いのだけど。

長くなるのでさっさっと言うと、
その自分を知るための最低限の準備として、自分の生きてきた軌跡を辿り、
自分の手で記しておくのはとても有効だ。
漠然とわかっていたけど、忘れていたことがあったり、
時系列で並べることによって、どのようにパーソナリティが形成されてきたかが把握できるはず。

なんて言ってるけど、僕がそれに気付いたのはこのブログ始めた2010年の2月。
長々と書いたら、予想もしていなかった「面白かった!」という声をたくさんもらった。

というわけで、下に全文付けてみる。
読んで頂いた方になんらかの参考になれば幸甚です。

・・・・・・・・・・・・・・・・

1961年 ●一回り下の19歳のバスガイドを食堂でナンパした男の長男として、
       教科書通りのデキ婚の末、金沢市片町・松田小児科分娩室で参上。
       32歳までは、ひとりっ子として生きる。
   3歳 ●双葉保育園での昼寝タイムに日々幸せを感じる。
      ●ダンゴムシをくるっと丸めるのが好きだった。
   4歳 ●両親離婚でなぜか父のほうに。
       近所に住んでいたオネエサンに逢いたいと言ってきかず
       母親がついにあきらめたという説。
      ●保育園の宿直室で過ごす夜までの長い時間で、
       「ひょっこりひょうたん島」の歌を完全マスター。
       バスガイドだった母親の影響大、か?
1966年 ●足が1本動かなかった飼い犬、
       雑種のジョンと市営住宅の庭で 遊ぶ日々。
   5歳 ●保育園中退。経歴としてシブイと今思う。
      ●父親が買い与えてくれた小学館の図鑑シリーズに没頭。
       「魚類の図鑑」のカニがずらっと並んだページに圧倒され、
       分類&俯瞰の面白さに触れる。
       他にお気に入りは「動物の図鑑」「鳥類の図鑑」
       「体育・スポーツの図鑑」「宇宙・天文の図鑑」。
      ●チラシの裏に、ひたすら絵を描いて過ごす。
       特に描き込んでいた絵は、へのへのもへじ。
      ●祖母に面倒見てもらい、よくパチンコに連れていかれる。
       落ちている球をこまめに拾って打っていた。
       金沢で初めて戦後すぐにできたパチンコ屋は、
       沖縄で捕虜になって戻ってきた叔父が始めたというウワサもあり。
      ●「サンダーバード」の面白さにドハマリ。
      ●父親が市営住宅の庭に大きな池を手作りし、
       そこにで泳ぐ鯉を飽きずに延々見て過ごす日多し。
1967年 ●好物は、不二家のソフトクリーム、すいか、大学イモ。
   小1 ●入学前に2番目の母親が来る。美人。
      ●金沢市立押野小学校入学。写生大会で絵をほめられ
       これなら画家になれると勝手に思い込む。
      ●「コンバット」が大好きで、この頃は米軍志向。
      ●警察予備隊1期生のだった父親と戦争ごっこにあけくれる。
       マイヘルメットには、クレヨンで迷彩柄を施す。
      ●「仮面の忍者 赤影」が大好き。市営住宅の庭にあった
       いちじくの木に登り、背中に担いだ日本刀でちゃんばら。
   小2 ●父親と車で東京へ旅行。
       熱海の叔父がやっていた「石黒犬猫病院」
       で見た病気の犬たちの姿と、
       できたばかりの霞が関ビルに昇り「高い場所は珈琲の値段が高い!」
       と言ってたことが印象に残る。
      ●2番目の母親が、結核で入院。
       おそらく、その後、退院することなく逝去(事実未確認)。
      ●父が男手ひとつで面倒見られず、
       富山市内の叔父の家に預けられる。安野屋小学校。
       いとこ2人、セッターのホルスと遊ぶ。
      ●なぜか「夜明けのスキャット」(由紀さおり)が心に沁みる。
   小3 ●叔父の転勤でまた金沢へ戻り、十一屋小学校に。
       図書室で読んだ、「シュリーマン伝記」にワクワクする。
       (考古学、イケテんじゃん!)と、たぶん金沢弁で呟く。
      ●遊び程度だが、街のグランドでひたすら野球野球野球。
       この頃は、道具が多いのが好きでキャッチャーを。
       田淵ブームで、阪神の帽子に「22」付けて。
      ●図画工作の奥田先生がすごく自由な雰囲気のおばさんで、
       仕事もラクそうに見え、美術教員に進路を定める。
1970年 ●毎週『少年マガジン』を買うようになる。中学卒業あたりまで。
   小4 ●少し明るいガキになってくる。
      ●スカートめくりが大ブーム! せっかくなので、少したしなむ。
      ●のちに鹿児島ラサールに進む、長浜君といつもひたすらバカ話。
      ●よく犀川にウグイ釣りに行っていた友人、
       南君と漫才コンビ結成して、クラス発表会で何度か披露。
       すべり気味。
       でも、笑いへのこだわりが芽生える。
      ●父とふたりで暮らし始める。
      ●タバコ屋からもらってきたテリア系の雑種ロックが仲間入り。
       夕方から夜中までは、ずっと犬とふたりで過ごす。
       いっしょに自炊のメシ食っていっしょに寝る生活が2年続く。
      ●『少年マガジン』連載の「天才バカボン」に傾倒する。
1971年  ナンセンスのすばらしさに触れる。
   小5 ●友人がほとんどそろばん塾に向かう中、
       ひとり空手道場に通い始める。
       昭霊流無心館空手道場はランプ生活、鉄下駄で公道を走る。
       卒業まで2年間通いおまけしてもらって初段取る。
      ●クラス替えでいっしょになった女の子ハタボーを好きになり、
       19歳まで折りにふれ何度も何度もフラれ続ける。
       その残像を、カミサンと知り合う26歳まで引っ張ることに。
      ●『少年マガジン』連載の「釘師サブやん」にハマる。
       国道沿いで1500円で売っていた中古パチンコ台を
       ねだりにねだって買ったもらい釘の研究、
       カナヅチとドライバーを使って釘師気分を味わう。
      ●人生初のダジャレを発する。その記念すべき第1号は、
       雨上がりの道で並んで歩いていた水田君に対してのもの。
       「おまえのお姉ちゃん、ミズタマリやろ?」
      ●以前から好きだったプラモ作りが
       ここらから徐々に本格化(ミリタリー、ドイツ陸軍中心)。
1972年 ●3番目の母親が来る。
   小6  2番目の母がどうなったのかも聞かされずウヤムヤという、
       父親の無茶ブリ。
       心境フクザツながら、こちらもなしくずしでその環境に順応。
      ●天地真理、アグネスちゃん、麻丘めぐみあたりの歌に魅かれる。
      ●買えもしないのにオーディオ好きに。カタログを見続けるだけ。
      ●永谷園のお茶漬けのリについていた
      「東海道五十三次」カード 集めにハマり、
       浮世絵の素晴らしさを知る。
      ●学級委員を、ハタボーと2人で。
      ●進学校の金沢大学付属中進学を先生に奨められたが、断る。
       ハタボーが行かないからだとはさすがに誰にも言えず。
1973年 ●ルアーの美しさに魅了され、買わずにカタログを眺める日々。
   中1 ●ふたつ上のいとこの影響もあり、本格的に洋楽に目覚める。
       まずは、ミッシェル・ポルナレフ、ギルバート・オサリヴァン、
       ポール・サイモン、カーペンターズあたりから。
      ●ずっと野球部に入るつもりだったのにバレー部に入るという大失態。
       テレビアニメ「ミュンヘンへの道」ブームに   
       調子づいてしまったため。
       サーブ、レシーブ、トスは上々だが、ジャンプ力不足から
       アタックがてんでダメというトホホ部員。
      ●父親が、犬に加えて、猫、アヒル、しまいには猿! 
       などを飼いはじめ、
       家の中はちょっとしてムツゴロウ王国状態。
      ●クラスメイトの影響で自転車にハマる。
       少しずつパーツを買いながらロードレーサーを組んでいく。
      ●この頃には、完全に地元の金沢美大にいくつもりに。
       入試科目を調べたら数学がないと知り、完全に数学を捨て始める。
      ●『週刊ベースボール』を毎週買うようになる。高校卒業あたりまで。
      ●「北陸初のアメフトの試合」を観戦して以来、アメフトファンに。
      ●天才・前田君としょちゅうつるんで、
       その知的オモシロ会話セ ンスに舌を巻く。
      ●「日本海博覧会」に来た、
       「アリス」谷村新司のベタなMCが面白く衝撃を受ける。
      ●本に目覚める。きっかけは、
       タイトルに魅かれた遠藤周作の 「ぐうたら人間学」。
       その流れから、北杜夫、安岡章太郎などにまず続いていく。
       「ぐうたらシリーズ」にはとにかく没頭。
       「ぐうたら交友録」はじめとするエッセイに登場する文人たちが
       ものすごくユルク見えて憧れ、ぐうたら生きていこう!と決意。
      ●『週刊プレーボーイ』表紙の手塚さとみのあまりのカワイサに
        生まれて初めてグラビア誌を買う。彼女が同じ歳と知ってビビる。
1974年 ●市内の模型屋さんのジオラマコンテストで優勝。
   中2  「冬のロシア戦線を進むドイツ親衛隊機甲師団」的なテーマの
       1メートルほどの長さの巨大なジオラマ。
      ●バレー部が秋の新チーム練習スタートの日にさぼって
       先生の逆鱗に触れてをクビに。さらにぐうたらと遊び始める。
      ●クラスでちょっとしたボクシングブーム。
       放課後、グローブつけて3分1ラウンドでちゃんとやりあう。
      ●なぜかお金稼ぎたくて新聞配達始めるが3日でやめる。
       地道な作業と早起きは、とことん向いていないと知る。
      ●海外文学、落語にハマリ始める。
      ●生まれて初めて、お店で酒を飲む。
       前田君の導きで、柿木畠ジャズ喫茶「もっきりや」にてバーボン。
       そんな自分にしびれる。わかりやすい。
      ●前からかなり好きだったキャンディーズを、
       「年下の男の子」で、いよいよ本気で好きになる。
      ●本格的な飲酒生活スタート。
       ウイスキー、ウオッカ、ラム中心、時に日本酒。
       クラスで朝、酒臭いと言われる。登校してすぐ吐いたりも。
1975年 ●仲がよかった、前田君、高見君、牧人君、塩谷君らと
   中3  自主的に本などの独学で麻雀を覚えて
       放課後しょっちゅう卓を囲む。
       「高校に行ったら、
        人付き合いのためにも麻雀のひとつもでき ないとな」
       という前田君との会話がきっかけ。
       今考えると子供と思えない レートで。
      ●筒井康隆にがっつり傾倒。「乱調文学大辞典」から。
      ●受験勉強いっさいせず、世界文学、日本文学読みまくりに逃避。
      ●金沢港へ大勢でチャリに乗っていく週末の海釣りにハマる。
       歩いて30分かかる、誰も来ない堤防の先まで行っていたが、
       この頃、新潟〜富山で、拉致被害が……。ふ〜〜。。。。
      ●伊藤蘭の母校、日大ニ高に入りたいなと、願書を取り寄せてみる。
       学費から生活費まですべて自活すれば行けると悩むが
       最後は勇気不足で断念。
      ●高校に入ったらタバコ吸ってないとはじまらんと喫煙スタート。
       銘柄は当時ちょっと高かった「蘭」170円。
      ●初めてキャンディーズのコンサートに。「春一番」発売直後。
       ひとりで行って、あまりのステキさに茫然自失の熱病状態。
1976年 ●星稜高校入学。公立錦丘高校は落ちたが、むしろ嬉しかった。
   高1 ●入学式で、2〜3年生がやっている「3秒間頭を上げないおじぎ」
       を見て、どんでもない学校に入ったのかもと思う。
      ●未経験者なのに野球部入れないものかと見に行ったが、
       とてつもないハイレベルと地獄の練習を目の当たりに
       完全にビビって断念。
      ●美大行くつもりだったので、一応、美術部に入部。3年生時は部長。
      ●クラスにいた、あと2人のキャンディーズ狂と、
       全国追っかけレベルで青春を賭け始める。
       資金は、肉体労働、魚屋配達、質屋。
       泊まりは駅でごろ寝、ホテルならシングルに6人、
       知り合った人の家とか。
       移動手段は、鈍行多用と、遠距離のキ○ル……JRさんゴメンナサイ。
      ●コンサートで3日間6ステージ続けてコール絶叫し過ぎて、
       1週間声が出なくなる。
       治ったら、声が突然低くなって、そのまま今に至る。
      ●夏休み、右腕に「キャンディーズ」、
       左腕に「RAN」とカッターで彫る。
       その跡は、40歳過ぎまでくっきりと読めていた。
      ●伊藤蘭が『砂の上の植物群』(吉行淳之介)を読んだと知り、
       読んで見たら大人っぽい内容にびっくり。
      ●星稜高校、小松辰雄さんの快投で夏の甲子園でベスト4に。
       学校全体が甲子園でイケイケムードになることを肌身で知る。
      ●応援団が大好きになって、ちょいと団員の真似事も。
       母校のアルプススタンドと、ハマっていた
       『嗚呼! 花の応援団』の影響大。
      ●見た目、やること共に、徐々にヤンキー化が進行。
       ソリコミした部分に産毛が生えてくるので、
       授業中に抜くのが楽しかった。
1977年 ●キャンディーズ追っかけ、さらに本気。
       寝ても醒めても伊藤蘭。
   高2  『平凡』の小さい写真だけを頼りに、
       西荻窪にあった自宅を足で探し当てる。
      ●父が、借金から東京にトンヅラ。
       コワイおじさんがしょっちゅう家に来るようになる。
      ●ある日、学校から家に帰ったら、
       家財道具すべてに赤い紙が貼られていた。
       いわゆるひとつの「差し押さえ」を味わうという貴重な体験!
      ●その夜、母親と愛犬ロックと夜逃げ。
       リヤカーにふとんとか鍋乗せて暗い道を引っ張り、
       知人が手配してくれた公民館に向かうという状況。
       こういうのってドラマじゃなくてもあるんだな〜と感慨にふける。
      ●夜逃げのドタバタからロックがいなくなる。
       学校も行かずに1週間自転車で探し、竹やぶで見つける。
      ●高校卒業までは、家は何度かこそこそとボロアパートを転々とする。
      ●クラス担任の山本雅弘先生(現・遊学館高校野球部監督)に、
       日々根性を叩き直される。
      ●7/17、キャンディーズ解散宣言。
       翌朝、仲間で登校前6時に集合。ただ茫然。
       以降、ますます応援活動がヒートアップ。
      ●体質に合わないなと思いつつも、
       つきあいシンナーなどちょこっとたしなむ。
      ●謹慎1回
      ●氣合いの入ったスペシャル學ランを、
       登校時に校門で取り上げられる。
      「卒業式に取りにこい!」と言われたがもちろん行かず。
       金を貯めて買った裏地に龍虎のししゅうが入った中ランは
       3回ぐらい着ただけでおじゃん。
1978年 ●3年になる前の春休みにキャンディーズ解散。
   高3  ファイナル後楽園は1塁側19列目。号泣。
       「さよならカーニバル」は全国6ヶ所回る。
       結局、ちょうど2年間で、100ステージ見た。
       投げた紙テープ総数は、2年間で5000本はくだらない。
       心の底から「青春は終った」と思う。
      ●キャンディーズが終った虚無感で廃人。
       本当に何をする気も起こらずただただ漫然と暮らす1年。
      ●夜は母親が働いていたので、毎晩、自炊で、
       ビールで晩酌の快感を覚える。
      ●星稜高校野球部、予選決勝で敗れて甲子園行けず。
       その代わり、勝った金沢高校の主将として
       中学の友人で麻雀仲間だった塩谷肇君が、
       甲子園で3安打。嬉しい。
      ●でも、キャンディーズで覚えた東京に行きたくて、
       まずは美大受験夏季講習で、阿佐谷美術学園に。
       講師に来ていた芸大1年生・岩崎さんと仲良くなり、
       飲みに連れてってもらう。
       岩崎さんの影響で、浪人予備校は、お茶の水美術学院、
       アルバイトはお茶の水の喫茶店にしようと単純に決意。
      ●謹慎2回
      ●金沢美大じゃなくて東京!と、
       受かるわけがない東京芸大を受けることに。
      ●多摩美、武蔵美、東京造形などは金がないので断念。
       伊藤蘭さん母校・日大芸術学部も学費高くあきらめる。
      ●共通一次試験の記念すべき第1回を受験する。550点。
       数学が限りなく0点に近かったが、
       国語が限りなく満点に近くなんとかこれぐらいでとどまる。
      ●出席日数的にも成績的にも本当にぎりぎりで卒業。
       暗い思い出多い金沢をあとに上京するのが嬉しかったが、
       卒業式で、徹底的に根性入れられていた
1979年  山本先生だけが泣いているのを見て心の底からぐっとくる。
  1浪目 ●上京。足立区小菅にアパート借りる。ほぼ荒川沿い。
       家賃1万2000円。6畳、流しはあり、トイレ共同。
       スーちゃんの実家、田中釣具店まで歩いて15分ぐらい。
      ●親が入学金を工面できす、春に、お茶の水美術学院に入学できず。
      ●お茶の水駅前の「名曲珈琲 丘」でアルバイト始める。
       アジア一大きいという、古めかしく巨大な喫茶店。
       ガロのヒット曲「学生街の喫茶店」のモデルだと言う説アリ。
       でも当然クラシックオンリーなので
      「片隅で聴いていたボブディラン」はありえないのでそこは創作かと。
       時給600円は同業ではかなりよかったが、その分、脅威の忙しさ。
       ここで4年働く。
       毎日、ゴミを出す時間にかかる
       「パッへルベルのカノン」が刷り込まれる。
       最初1年近くはホール。
       大量のオーダーを運ぶトレンチさばきが鍛えられる。
       カウンターになってからは、
       これまた尋常じゃない数の注文を作り続ける。
       ナポリタンは、
       巨大なフライパンで一気に10人前炒めるのが神業。
       キャベツはまるごと5コとか千切りするのだが、
       よく失敗してしまい左手の人さし指は今でも傷だらけ。
       パフェにつけるリンゴの笹切りは、16段までいける。
       朝は、50杯用の布フィルターで一気に200杯の珈琲を落とす。
       サンドイッチ用のマヨネーズ作り、
       フルーツゼリー作りがお気に入り。
       プリンのぷるぷるになる焼き方は天才と言われるが、
       いっぺんに33コ作るレシピしか知らないので実生活では役立たず。
      ●後期から、お茶の水美術学院・油絵受験コースに入るが、
       レベルの違いと圧倒的に出遅れた気がしたことで、
       即、弱っちく挫折。
      ●喫茶店で働く人たちがあたたかい人ばかりで、バイト生活にハマる。
      ●草野球人生が、江戸川&荒川河川敷でスタート。
       初めてのユニフォームは、
       新小岩の中華屋の常連客チーム「ODDS」。
      ●地下鉄のホームで倒れてしまい、医者に行ったら
       「栄養失調ですね」と言われる。
      ●東京で暮らし始めた両親がマンションの管理人をやっていたので
       よくロックに会いに行く。
      ●バイト先の仲間、日大生・宇佐美君の借りていた
       新小岩のアパート(家賃2万円)で共同生活始める。
      ●バイト先の人たちが好きだったことで、
       競馬を覚えるが全然勝てず。
1980年 ●漫然と暮らしながら2浪目に突入。
  2浪目  特に予備校にも行かず、事実上、フリーター。
      ●雑誌『NUmber』創刊号を買い、
       掲載されていた山際淳司さんのノンフィクション「江夏の21球」
      ●バイト先の方々と、仕事終って朝まで麻雀、
       飲酒、競馬、パチンコ……と、現実逃避しつつ、
       ただ流されるまま過ごす。
      ●宇佐美君の影響で、人生初の一眼レフを買う。CANON AE-1。
       写真の面白さに開眼。
       これ以降歴代、A-1、EOS5、EOS10D、コンパクトもG10と、
       ずっとCANON派。
      ●バイト先から近いアメ横が大好きに。
       初めてインディアンジュ エリーを買う。
       トルコ石ひとつのナバホのリング。6000円。
      ●ある革製品店で、気にいったジッポーケースについて聞いていて、
       今や伝説のショップとなった原宿の「GORO’S」を教えてもらう。
       すぐに訪ねて行ったら、ものすごくヒマそうで、
       半日ずっとゴローさんと話し込んだり。
       あまり買えなかったが、よく行っていた。
      ●なけなしの金で、ウェスタンブーツを買う。
      ●宇佐美君と共同生活のまま、中野!に引っ越し。
       東京人の仲間 入り気分。
      一気に家賃6万(3万ずつ)。大人の仲間入り気分。
       シティライフ(ぷぷっ)に浮かれ気味。
1981年 ●東京芸大受験は、もはや冷やかしレベルに。当然受からず。
  3浪目 ●さらにだらだらと3浪目に突入。
      ●宇佐美君の引っ越しと相まって
       高校中退してバイト先で働いていた17歳のコと同棲始める。
       流されるままの暮らしぶりはいよいよ刹那的となり
       さすがに、このままじゃ人生まずい! と、
       上京3年目にして初めて将来を考える。
       キャンディーズで買いまくった知った雑誌の面白さから
       雑誌の世界に進みたいな、と考える。
       もう大学を受ける気力はなく、いろいろ調べた結果、
       ジャーナリスト専門学校は3年の総合過程があると知って、
       行くことを決意。
      ●東京芸大は、もう受けもせず。
      ●入学を前に「人生今度こそ背水の陣!」と氣合を入れ、
       生活全体の時間的経済的精神的負担を減らすため、
       マンション管理人の親元から通学することにして、
1982年  同棲相手と住むアパートには週末帰ることを決断。
専門学校  ●日本ジャーナリスト専門学校総合科(3年過程)に入学。
&時事通信 ●入学後3ヶ月ほど経った週末、アパートに行くと部屋に何もない。
       同棲相手がいなくなって家財道具一式捨てられた様子。
       人生で「これは夢だと」思ったのはこの時だけ。
       さすがに手がかりを当たって探すが見つからず。
       卒業アルバムや写真もすべて消える。
       キャンディーズ関係超レアグッズや思い出の品が一番痛かった。
      ●中学の友人・塩谷肇君(金沢高校で甲子園出場)が、
       国士舘大学野球部で5番を打っていて
       神宮球場の東都リーグ入れ替え戦見て、応援に燃える。
       国士舘のエースは、長冨浩志投手(広島ー日ハムーダイエー)。
      ●2年時の春に「名曲珈琲 丘」が閉店。
       戦後から続いたお店の歴史で、最後の従業員の名誉!?
      ●野球部(軟式)を創設。初代主将を2年間努める。
       専門学校野球連盟に加盟し、3部リーグからスタートし、
       4シーズンで2部に昇格。
       東京近郊のいろんなグランドに行く。
       ちなみに、2006年、創部23年目で
       ついに東京都大会(トーナメント)で優勝する。
1983年 ●国士舘卒業した塩谷君、電々東北で都市対抗に出場。
       その雄姿を、後楽園バックネット裏で望遠で撮する。
      ●「つぼ八」中野南口店で、2ヶ月間つなぎバイト。
       大声とテキパキ感が店長に気に入られ強力に引き留められるが
       次が決まっていたのでお断りする。
      ●時事通信社運動部でアルバイトを始め、卒業まで2年弱続ける。
       プロ野球のデータ入力がメインの担当で、
       毎日、1試合を受け持ち、イニングごとにマークシートで入力。
       試合終了後、
       1〜2分ですべての試合データを新聞社に配信するための
       チームワーク作業にやりがいと快感を覚える。
       この時で、スコア付けと読みはかなり鍛えられた。
       もともと野球好きで背番号ヲタクだったこともあり、
       背番号は12球団800人すべて覚えていた。
1984年 ●1週間分のバイト代を金曜にもらい、
       土曜日にパチンコで全部スってしまうパターンが多くなる。
       バカ丸出し。
      ●その穴埋めで、高田馬場学生ローン、アコム、丸井、西武などの
       キャッシングに手を出し、だんだん利子が利子を生むドツボに。
      ●さすがにヤバイぜダブルバイトだ、と夜中のビル掃除を始めるも、
       8時間も無言で床を見続ける作業に、1日でメゲる根性ナシ。
       結果、借金苦解消されず。
      ●学校に来ていた求人で、角川書店『バラエティ』編集部で
       スポーツ関係のデータ原稿書きなどをさせてもらうようになる。
1985年 ●日本ジャーナリスト専門学校卒業。野球部作ったというだけで総代。
  24歳  人生で唯一、この3年間だけは前向きに学校にコミットした。
純社会人に ●角川書店『バラエティ』編集部で、契約で編集者見習いに。
       月給は8万円。
       角川映画、関連タレント、映画・演劇系カルチャーなどの雑誌で、
       女性タレントにはちょくちょく合う。
       初めて話した芸能人は、上京直後の、井森美幸。
       初めて立ち合ったスタジオ撮影は、鷲尾いさ子。
      ●おつかい仕事で、ソニーレコードへ。
       キャンディーズに関わっていた酒井政利プロデューサーの
       写真を借りてくる用事で、
       いきなり本人登場で部屋に通されビックリ!
      ●信濃町のソニースタジオ(通称シナソ)に行った時も、
       キャンはここでレコーディングしてたんだ、と感慨にふける。
      ●なんとなくネタやノリが合わず仕事のアテもないのに半年でやめる。
      ●アパートを借りる金がなく、大森の専門学校の先生の家に居候する。
       不安感から、毎晩、銭湯〜ビールのパターンにだらしなく逃避。
      ●講談社『PENTHOUSE』誌で、見習い的な仕事を頼まれる。
       専門学校の先生の紹介。
       初めて命じられた仕事は「日本のピストル非合法事情」。
       「じゃあ今から全国の警察に電話して、
        ピストルの事件について聞いてって」
       と軽く言われて、大緊張しながら編集部で電話かけまくる。
1986年  その記事の対談で、北方謙三さんに初めて有名人の名刺をもらう。
  25歳 ●『PENTHOUSE』誌でちょくちょく声をかけてもらえるようになり、
       フリー記者&編集者として記事作りに関わり始める。
        エンタメ、スポーツの記事中心。
       当初は、収入は月に1ページの原稿料2万円だけということもザラ。
       当時の担当の方が、文芸誌『群像』出身で、
       文章にはとんでもなく厳しく、
       200字の囲みコラムに1週間続けてダメ出し続けられたことも。
      ●電車賃がなく、冬、音羽から中野まで歩いたことも。
      ●同誌で仲がよかった同じフリー記者の人の
       西荻のアパートに年中行くようになる。
1987年  昔の伊藤蘭家をしょっちゅう見て懐かしむ。
  26歳 ●徐々に仕事が増え、ぼちぼちと食えるようになっていく。
       その代わりとんでもなく忙しくなる。
       だいたい、月末〜13日あたりの校了日までは、
       ほぼ泊まり込みで帰るのは着替えぐらいの生活。
      ●有名な「袋とじ」の記事作りも担当。
       エロいこととアカデミックを強引に結び付ける手法に努力。
       図書館で物理の理論を調べたり、折り紙の先生の家に通ったり。
       自分で提案した「溶ける紙 ディゾルボ」を使った記事が大反響。
      ●AV女優グラビアもかなり担当。
      ●野球関係の作り込み記事も多かった。阪神モノが特に。
      ●堅めの有名人インタビュー&コラム連載ページも担当。
       河野洋平さんにインタビューして終ったらすぐ、
       ネクタイしたままAV女優撮影現場みたいなことも。
      ●伊藤蘭さんの事務所に、インタビュー記事、キレイ系グラビアなど、
       3回申し込むがすべてうまくいかず断られる。
      ●たまに、『週刊現代』のグラビアの仕事も頼まれるように。
       「AVギャル運動会」「AVギャル水泳大会」
       「水着メーカー6社キャンペーンガール」
       などイロモノ系と、ラグビー取材モノ、野球モノなども。
      ●カミサンと知り合う。
       流行りのお店に素人の女子を仕込んで撮影というベタな企画で
       知人のライターに紹介してもらったOL。
      ●会ってすぐにカミサンの家の近所、上北沢に引っ越す。
1988年  この街で16年も過ごすことになる。
  27歳 ●初めての海外は、グラビア撮影でフィリピン。
       現地女性のヌードを、スラム街やら、汚い河やら、
       本物のライ フル持たせて撮ったりという、
       危険かつエグイもの。いろいろけっこう怖かったっす。
       セブ島にも遊びでおまけ。
      ●渡航中にロック他界。享年17歳。
      ●八丈島へ旅行。島好きのきっかけに。
      ●『PENTHOUSE』誌休刊。雑誌は売れていたが会社の方針によって。
       面白い誌面を目指して活気がある編集部の中で、
       厳しく鍛えられ、さまざまなジャンルの仕事をさせてもらい、
       自分の仕事のベースを作ってもらい充実していた。
      ●フェリーで小笠原に。1週間滞在。最高。
      ●講談社『Hot Dog PRESS』誌で、契約編集者に。
       『FRAIDAY』『週刊現代』からも声かけていただいたが
       原稿書くより編集者の仕事が向いているなと思い決断。
      ●年に5回の「女のコ特集」では社員編集者といっしょに組み
1989年  たくさんのライターさんと念入りに構成していった。
  28歳 ●他に、女性タレント企画グラビア連載
       「いきなりフィッティングルーム」を始める。
       コスプレという言葉がなかった時代に、
       タレントにさまざまな衣装を着せていくという伝説の人気企画。
       デビュー時の中谷美紀のバニーガールが出ている号は
       プレミア5万円のお宝だとか。
      ●さらに、企業タイアップページも担当。
       コカコーラ、サントリー、パイオニア、アデランス、JTはじめ、
       飲食、オーディオ、化粧品、エンタメなど、
       月に2〜3本ペースでさまざまな企業のページを作る。
1990年 ●沖縄「オクマリゾート」に、読者参加レポート記事作りで。
  29歳 ●海水魚飼育にドハマリ。畳一畳分の水槽という本気ぶり。
       その美しさに見とれてはいたが、
       人工海水代、たまにの大掛かりな水変え、などでメゲ気味、
       多忙さもあり、その後3年ほど経ったところでギブアップ。
      ●2年連続の小笠原1週間。サンゴ獲りの老夫婦と仲良くなる。
      ●石垣島、ヤマハリゾート「はいむるぶし」に、
       読者参加レポート記事作りで1週間滞在し、ダイビング免許取得。
       しかしそれ以来、一度も機材担いで潜らず、もっぱら素潜り。
      ●入っていた草野球チームが、狛江市で優勝し、
1991年  代表として都大会に出場。草野球人生で最高の栄誉。
  30歳 ●三十路直前に結婚。青春の思い出の地、お茶の水にあり、
       文人も利用することで知られる「山の上ホテル」で。
      ●仕事はひたすら誌面作りに没頭し、とにかく忙しい。
       朝6時までいて昼には出社も当たり前で、
       この頃がいまのところ人生で一番仕事時間が長かった。
      ●2度目の海外も仕事でハワイ。
       ワイキキビーチで1週間、
       朝から夕方までひたすら女のコをキャッチ撮影。
       1000円札の束を握り締めて、必死。疲労困憊。
      ●広告の仕事を通じて、新進デザイナーのナガオカケンメイに出会う。
       面白がるセンスなどでぴぴっと意気投合。誕生日が同じ。
1992年 ●結婚1年後の新婚旅行でジャマイカに8日間、ロスに2日。
  31歳  プール付きのコテージという一生に一度であろう
       ラグジュアリー感を堪能。
      ●原稿依頼打合せで山際淳司さんに会い、感激。
      ●夏の甲子園で、星稜・松井が明徳義塾から5敬遠。
       夜中、近所の公園に行って泣きながら酒飲んでたら
       警官からガチの職質を。一睡もせず。
      ●2度目の海外も仕事でフランス。
       スタジアムで行われるモトクロスレース「スーパークロス」の取材。
       オランジュリー美術館の雰囲気に酔う。
1993年 ●『Hot Dog PRESS』編集部を辞める。
  32歳 ●今しかない!と禁煙に成功。5年かかってやっと……。
      ●産みの母親に会う。バツ2で小松市に一人暮らし。
       温泉のコンパニオン派遣を手配する事務所の仕事をしていた。
       奇跡のようなことがいくつも積み重なり、探し初めてすぐに会える。
       父親に会ったことを告げたら
       「キャンディーズを追っかけ始めた頃、
       伊藤蘭が母親に似ているので背筋が寒くなった…」と言われる。
       たしかに似ていて納得、こちらも背筋が寒くなる。
       動物の刷込み、おそるべし!
      ●7つ年下の“種違い”の弟がいることを知る。
       32歳で突然できた弟と電話で話してかなり不思議な気分。
      ●警備員の生活を8ヶ月やる。工事現場で夏、冬、さすがにつらい。
       その後、宅急便仕分けバイト2ヶ月。自宅篭り2ヶ月。
       1年間 自分を見つめ直す。
      ●そんな中、北海道にカミサンと兄貴夫婦と4人で旅行。
       北の大地の魅力が染み入る。
1994年 ●フリーの編集者として仕事開始。
  33歳  渋谷にある友人のデザイン事務所に机を置かせてもらう。
       これ以降今まで、ずっと事務所は渋谷。
       今までの仕事のファイルをどさっと抱えて、人に会いまくる日々。
       ナガオカケンメイや、『Hot Dog PRESS』で一緒に仕事していた
       石丸元章氏の雑誌連載など始める。
1995年 ●ミスター・ビーンにドハマリ、即、ビデオを全巻買う入れ込みよう。
  34歳 ●第一興商DAMのエンタテイメント系コンテンツに、
       オブザーバー的に関わり始める。
      ●コダックフォトCDグラビアシリーズ、
       吉本女子プロレス制作物一式、東進ハイスクールネット事業、
       等々、この頃、出版関係以外の仕事も多かった。
      ●星稜高校、夏の甲子園で準優勝!
       決勝で帝京に敗れるも、山本省吾君の気持ちの力投に涙。
      ●カミサンの影響で、ぼちぼち歌舞伎を見始める。
1996年 ●記念すべき、初めて作った書籍が、2年がかりで刊行。
  35歳  『コマボン』(ナガオカケンメイ/扶桑社)
      ●高木ブーさんのCD「ハワイアンクリスマス」を、
       プランニング&コーディネート。
       カミサンが、ブーさんのウクレレ演奏を下町公演で見たのがきっかけ。
      ●草野球で打ちこまれ、悔しさからジムに通い始める。
       早朝1時間、週3ペースだったが、
       眠さから徐々にペース落ち、2年で頓挫。
      ●第一興商のプリクラ「プリダム」トータルプロデュース。
1997年 ●(有)ブルー・オレンジ・スタジアム設立、
       つっても2年近くはひとりだけ。
  36歳  どこにモノを置いていても手が届くほど狭いワンルーム。
      ●初の著書『インディアンアイテム100%』(リブロポ ート)刊行。
      ●『ブラボー!すきまな広告』
       (ナガオカケンメイ/リブロポ ート)刊行。
1998年 ●神楽坂「ブラッセルズ」で、ベルギービールに出会う。
  37歳 ●分類王の土台となった
      『チャート式 試験に出ないニッポンの しくみ』(扶桑社)刊行。
      ●カルチャーWEBマガジン「HOTWIRED」江坂健編集長が
       同書を見て面白がってくれて、
       「チャート式試験に出ない社会生活のしくみ」連載開始、3年続く。
      ●同書を読んだ編集者から「発想が宮武外骨に似てますね」と言われ、
       本を買ったりして調べているうちにどっぷりと傾倒する。
      ●『この映画がすごい!』で連載開始(6回)。
       「CGの現場から(ダジャレ企画)」
      ●パラダイス山元さんに出会う。
       昔から音楽のほうのファンではあったが、
       『デザインの現場』のマン盆栽の記事を見てその面白さにしびれ、
       パルコの個展に行って意気投合。
      ●自分の野球チームを創設。
       「ブルーオレンジスタジアム軟式野球部」 (通称BOS)。
       22歳から37歳まで全員が、ジャーナリスト専門学校野球部のOB。
1999年 ●初の社員が入る。他人の給料を払っていくことを初めて経験。
  38歳  その精神的物理的重みを肌身で感じる。
      ●立石大河亞の展覧会(O美術館)を見て、
       作品の構造、発想に衝撃を受ける。
       自分の中では、世界でもっともスゴイと芸術家となる。
      ●『ザ・マン盆栽』(パラダイス山元)シリーズの第一弾刊行。
      ●CD『マンボdeクリスマス』(パラダイス山元)をコーディネート。
      ●WEB「メガジョブ」(文化放送ブレーン)で連載開始(12回)。
       「チャート式 入社試験に出にくいニッポンのしくみ」
2000年 ●浮世絵師、歌川国芳に激しく傾倒。
  39歳 ●『怪傑チャート診断室』刊行。
       ビジュアル2択チャートはここから。
      ●『Title』(文藝春秋)で連載開始(1年2ヶ月)。
       「チャートの王様」
      ●『Sabra』(小学館)で連載開始(7回)。
       「いにしえ廣告」「チャートで目次」
      ●WEB「メガジョブ」(文化放送ブレーン)で連載開始(12回)。
       「チャート式 正しい気もする会社のしくみ」
      ●「W.」(SONY WALKMAN 公式サイト)で連載開始(3回)。
       「聴く、チャート劇場」
2001年 ●『盲導犬クイールの一生』(文藝春秋)刊行。
  40歳  クイールのことを知って8年、企画して3年がかりで出せたが、
       まったく売れるとは思ってなくて、売れ始めてびっくり。
      ●BSフジ番組「お台場トレンドウォッチング」の本紹介コーナーで、
       書評担当で準レギュラー出演(10ヶ月)。
      ●『眺めのいいカフェ』(山村光春/アスペクト)刊行。
      ●『お湯のグランプリ』(パラダイス山元/角川文庫)刊行。
      ●ロシアアバンギャルド展(庭園美術館)で、しびれまくり。
      ●『編集会議』(宣伝会議)で連載開始(2年半)。
       「ca ART」
2002年 ●『盲導犬クイールの一生』がNHKドラマ(7回)で放映。
  41歳 ●『CD HITS!』(学研)で連載開始(1年半)。
      「チャート式 音楽ノ小窓」
      ●氣志團団長・綾小路翔を見て、天才だとシビレ、
       すぐに氣志團本の企画をプッシュする。
      ●恩師・山本先生が野球部監督の、遊学館高校が甲子園初出場。
       1、2年生だけでベスト8の活躍に燃える。
      ●『君のニャは、』(八ニ一/ワニブックス)刊行。
      ●『出現! フォトモ』(糸崎公朗/パルコ出版)刊行。
2003年 ●社員が2人になったので、少し広いところに事務所移転。
        部屋 が2つに!
  42歳 ●『POPEYE』で連載開始。
       「チャートdeデート」
      ●『盲導犬クイールの一生』が映画に。崔監督、松竹。
      ●イタリアへ。中学の同級生が、
       神父としてローマに4年間留学 していたことから。
       浜尾枢機卿を仕事部屋に訪ねて面会できるという貴重な体験も。
      ●『氣志團現象』(ニッポン放送プロジェクト)刊行。
      ●90%ローンで、70平米2LDKのマンションを購入。
       人生42年目にして初めて“持ち家”に住み感慨深い。 
       フルリフォームを楽しむ。
      ●「YAHOO! オークション」サイトで連載開始(6回)。
       「チャート式 試験に出ないヤフオクのしくみ」
      ●ヤフオクで、ロードレーサー、憧れの「チネリ」を格安でゲット!
       20年以上前のもの。チャリンコ通勤用。
2004年 ●社員が3人になったので、さらに広い物件に移転。
  43歳 ●『ダジャレ ヌーヴォー』(扶桑社)刊行。
      ●母校・星稜、高校サッカー選手権で、ベスト4で
       国立競技場で燃える。本田圭佑の活躍が光った。
      ●校門で取り上げられた17歳の時から、
       いつか作ると誓っていたオーダー學ランをついに作る。
       學ランの名門・並木にて、トータル10万かけて。
       裏地は大阪のハッピ屋さんから取り寄せた龍虎の手染め。
       ししゅうは、般若心経などをちりばめて。
      ●始まって間もないmixiに、本気でハマる。
      ●『ナベツネだもの』(情報センター出版局)刊行。
      ●『R25』で連載開始(半年間)
       「失笑! ダジャレ係長」
      ●屋久島に行く。トトロの森にしびれる。
2005年 ●『mixiの歩き方』(扶桑社)刊行。
  44歳 ●やっと、ベルギーに。本場のビールを堪能。
       オランダもちょっとだけ。
      ●『モノ・マガジン』で連載開始。
       「見立流 新しいmonoの使い方」(2年間)。
      ●『カタロガー』で連載開始(2年間)。
       「地場商品開発プロジェクトx+y2」
      ●「s-woman.net」(集英社の女性誌ポータルサイト)で連載開始 。
       短編小説「奏でられた犬」(7回)。
      ●『月刊北國アクタス』で連載開始(2年間)。
       エッセイ「本づくり凸凹百景」
      ●オーディオ機器、小6からイメージしていた自分なりの満足レベルに
       32年がかりでやっとこさ到達。
      ●『やさぐれぱんだ』(山賊/アーティストハウス)刊行。
      ●大人なのに、水疱瘡にかかり、5日間隔離される。
       ベッドで、ゲラ読みまくりの電話しまくり。
2006年 ●戌年の正月に、愛犬、豆柴の「センパイ」が我が家に来る。
  45歳 ●バハマに1週間。イルカと泳ぐためだけのツアー。
       5日間、船の上で陸を見ずに生活。サイコー。
       ダイビングプールでのドルフィンスイム練習に10回参加してから。
      ●産みの母親、膀胱ガンが見つかる。
      ●「サントリービール オフィシャルサイト」で連載開始(1年)。
       「試験に出ないビールのしくみ」
      ●『ベルギービール大全』(アートン)刊行。構想10年の趣味本。
      ●『ぞりん』(扶桑社)刊行。
      ●『ナガオカケンメイの考え』(アスペクト)刊行。
      ●『餃子のスゝメ』(パラダイス山元/マガジンハウス)刊行。
2007年 ●1年の闘病の末、母親が膀胱ガンで他界麻己子。
  46歳  享年64歳。
      ●人生2度目の差し押さえ(本人は初)を食らう
       東京都が生命保険のお金をボッシュート
      ●『犬がいたから』短編集(集英社)刊行。たぶん最初で最後の小説。
      ●『CQ判定常識力テスト』(幻冬舎文庫)刊行。
      ●文楽を初めて見て、クリエイティビティの奥深さにしびれ、
       遅まきながらちょくちょく見始める。
      ●『モノ・マガジン』連載を別ネタに。
       「ダジャレ商品開発プロジェクトx+y2」(2年間)。
      ●『KING』で連載開始(1年間)。
       「番付王」
      ●『野球小僧』で連載開始(5回)。
       「草野球小僧!」
      ●WEB「首都高スマート新聞」で連載開始(5回)。
       「本当に首都高であったオモロイハナシ」
2008年 ●『ナガオカケンメイのやりかた』(平凡社)刊行。
  47歳  この本で、寄藤文平さんが、
       講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。嬉しい。
      ●『ぶっちぎり少年院白書』(吉永拓哉/二見書房)刊行。
      ●60歳までは投げ続けようと決め、
       10年ぶりにジム通いを始める。無理なく、
       夜9時から1時間、週2回だけ。
      ●早朝野球。平日の朝6時〜8時で月に3試合ペース。
       これにより、土日と合わせて、年に45試合ほどに。
      ●キャンディーズ解散30周年イベントで、発起人代表に。
       2000人が集い大成功。
      ●それを待っていたかのように、
       イベントの2週間後、父親が肺 ガンで他界麻己子。
       享年77歳。
      ●イベントの流れで「全キャン連」(全国キャンディーズ連盟)
       を復活させ代表に。
      ●雑誌の依頼で、伊藤蘭さんに、1時間半のインタビュー。
       感激過ぎて表現不能。生かしてもらえてことに感謝。
       いつこの仕事をやめても悔いはないと思う。
      ●WEB「Wan feel」で連載開始(8回)。
       「犬と僕と犬」
2009年 ●『エア新書』(学研新書)刊行。
  48歳 ●『アニスぺ』(イーストプレス)ペット漫画誌で連載開始(隔月)。
       「夜露死苦♥ センパイ!」
      ●携帯版「野球小僧」で連載開始(毎週)。
       「草野球のすべて」
      ●『すべらない偉人伝』(アーススターエンタテインメント)刊行。
      ●野球シーズン終了後、人生初、肩を痛め、1年半も草野球を休止に
2010年 ●「イシブログケンゴ」スタート。
  49歳 ●『犬と、いのち』(朝日新聞出版)刊行。
      ●『キャンパスに蘇るシベリアの命』(集英社)刊行。
      ●『2択思考』(マガジンハウス)刊行。
2011年 ●『ベルギービール大全<新>』(アスペクト)刊行。
  50歳 ●「ダイヤモンドオンライン」で「こちらスキル依存症クリニック」連載。
      ●『豆柴センパイと捨て猫コウハイ』(幻冬舎)刊行。

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