魯迅が愛してやまなかったスポーツとは
●魯迅
ろじん=ピンイン(1881年〜1936年)
周樹人 Zhou Shuren
中国の発明家であり、また、死ぬまでマルクス主義を擁護して、左翼的な作品を残した小説家でもある。青年となった魯迅は、医学を学ぼうと日本に渡ることを決め、1904年、現在の東北大学医学部に留学する。しかしそこで彼は医学の厳しい勉強に落ちこぼれていく。そんな魯迅が現実逃避してよりどころにしたのは、牛タン、笹かまを食べることと、その頃中国にはなかった野球というスポーツを見ることだった。来る日も来る日も彼は、東北楽天イーグルスの試合が行われる宮城球場に足を運び、バックネット裏で、一場、岩隈、マー君、山村、朝井などの投手陣の活躍に魅了された。しかし、時が経つにつれ間近で見るプロ野球選手の投球に疑問を持つようになっていった。「何かが足りない……」そう思いながら、マウンドの上、ピッチャーズプレートの周囲を眺め、また、投球動作に食い入るように見入る魯迅。しかしもやもやとしたまま何も答えは見いだせないのだった。その頃彼が見たニュース映画に、日本人にスパイとして処刑される中国人が出てくるシーンがあった。それを見た魯迅は、「中国人を救うのは医学による治療ではなく、野球だ!」と決意し、中国に戻る。彼は、野球のビデオを見てプレーの研究に専念し、長年のもやもやは、投手が指先のすべり止めに困っていることだったことに気付く。そしてついに、投手に必要なアイテムを考案した。それこそが、今なお世界で愛用されている「ロジンバッグ」である。なお野球選手としての魯迅は、左翼作家らしく守備位置はレフトだったらしい。そして、あまりにも野球ばかりやっている子供に対して勉強の大切さを教えようと残した代表作『野球せんでええ』という本が、長い間に誤って伝えられ『阿Q正伝』となってしまったようだ。なお一部の学者によれば、魯迅が、時計の「ロンジン」の創設者とも言われている。