アーカイブぐせ、あるんです
明日はきっちりとした年度末。
年末年始は私的な部分で1年間の諸案件をクリアにしておきたくなるものだが、
年度末のほうが社会に存在する自分としての区切りを付けたくなる。
そして、希望に燃えたり、気合いが入ったり、切なくなったりと、
進級、入学、入社など人生の大きな節目を迎えて経験し積み重ねてきた
別れと出会いの思い出を反芻する時でもある。
「アーカイブぐせ」があるな、と自覚している僕は、
この時期、普段にも増して無性にアーカイブ的なことをやりたくなってしまう。
公的なことでは、やった仕事のファイリング、データ類のまとめ、事務的な書類の整頓、
私的方面は、アルバム整理、草野球、ビール、お店などキリヌキ系のジャンル別まとめ。
それら普段放置気味の事柄に、よっしゃ!という氣分で立ち向かう。
そんな時、天から見下ろすもうひとりの自分が僕にこう投げかけてくる。
「功を成し遂げる人間は、やってきたことにこだわらないぞ!」
「その行為にかける時間をこれからやることに使っていけばいいじゃないか!」
わかってるんです、それは。
でもこれもう性分というか簡単には治らない習性、衝動である。
自己分析してみると、おそらく、
“足場を固めて次のステップに進みたい”
“自分のやったことを残しておきたい”
そして決定的なことは、“自分のやったことが好き”(笑)なのだろう。
その志向は、人にモノを伝えていく仕事上は、よろしくないなと思う。
でも、好きなものは好きと自覚し、
そんなマイナス部分を戒めつつやんわりいってもいいいと今では整理がついた。
人には迷惑をかけず、でも、自分へのストレスを増やさない生き方をしようと。
昨年、ブログの土台を作り始めた時もアーカイブ性も意識して、
自分がこれから何をやっていても記録として残していける場所がといいなと思い、
通常とは多少違ったスタイルの構造となった。
しかも最初に書いたのが 壮大なスケールの自分史 である(笑)。
やっと今週いっぱいで構想通りに整いつつあり、
少しずつ作っていた戦争ごっこの「基地」が完成した感覚がある。
2/3からアップし始めた記事についても、
以前書いたものを早めに出してしまいたく、
今のところそれが多めとなっているのは「アーカイブぐせ」からである。
話が回り込んでしまったので戻すと、
この「アーカイブぐせ」のある人と、こだわらない人ははっきりしているように思う。
僕自身と、僕が今ま接してきた人たちで考えてみたら、
かなりおおざっぱに言い切ってしまうと、
「豪快に強引に進めて成功していく」タイプの人は、自分のことに限らず
アーカイブ的なことへのこだわりが少ないと思う。
それがいいとか悪いではないが、推進、増殖し続けるためには
後ろは気にならないほうがいいということ。
しかしそれが個人としてなによりも幸せかというと一概には言えない。
たとえば、あるところで突っ走ってきたことへの虚無感に襲われるかもしれないし、
犠牲にしてきたことに対して後悔の念がわくかもしれない。
相対的、物理的なことでは一個人の幸せは計れないのだから。
僕の父親は2年前、肺ガンで77歳で死んだのだが、
亡くなる2年ほど前からちょくちょく会おうと言ってきた。
そして何度かにわたり、自分が物心ついてからの歴史を僕に話していった。
「オレもいつまで生きてるからわからんからなあ、はっはっは」
と笑っていたが、たぶんガンだと気づいていたんだろう。
幼少期に満州から引き揚げ、戦争、不良、水泳部、自衛隊、
タクシー運転、労働組合、ダンプ運転、デキ婚、離婚再婚、妻が結核、再離婚再々婚、
特許事業、夜逃げ、管理人、無職(笑)。
まあそこそこ波乱に富んでいて、第三者的立場でも面白いだろうと思った。
特に、今まで息子には一度も話さなかった、
女性絡みのことを聞けたのは一番の収穫だった(笑)。
その父親よりずっと上の叔父はいまだ車運転するぐらい元気なのだが、
その叔父も、10年ほど前に突然、自分史を書き始めたらしい。
また、シベリア抑留者が描いた油絵と体験の本を今僕が進めているのだが、
その老人、勇崎さんが絵を描き始めたのは、60歳を過ぎてからだったという。
父、叔父、勇崎さんの例にとどまらず、
人は生の終着点を意識した時、本能的に自分の足跡を記しておきたくなるのではないか。
どんな人も、なにかしらの形で、生きた証を残しておきたいと思うのだろう。
だから、もしかすると遮二無二突っ走って前へ前へと進み成功した人も
いつかその進んだライブ映像を巻き戻し、チャプターを切り、
DVDに焼いておきたくなるような気がする。
■原作・脚本・監督・主演=自分
■助演=膨大な人々
■制作日数=生きた日数
■制作枚数=1枚
■価格=0円
そのライブ映像を残す人にとって、
規模の大小や、演者の良否、パフォーマンスの巧拙、商品価値などは一切関係ない。
なぜなら、再生して満足するのは自分や、自分を無条件に愛してくれた人なのだから。
人間、どんなに若くても、絶好調でも、いつ死ぬかわからない。
1時間後に道歩いていて鉄骨がビルから落ちて直撃したら終わりで
そうならないとは言い切れるわけがない。
だから、明日はこの世にいるかわからない僕は、
自分なりに満足できるDVDを少しずつでも進めておこうと思っている。
それが日々を悔いなく多くの人に感謝しながら生きることにもつながるはずだ。