高城剛氏ブログから考えるー情報の審美眼を
昨日から、これを書かねばと決めていた。
ぬるめな雑記が多いブログなのでこれは珍しいことだが
たまに、こんなふうに、どうしてもこれ言いたいという衝動が湧き上がる。
高城剛氏ブログについてだ。
と言っても高城剛氏に物申したいとか、関連事項としての沢尻エリカ云々とかではない。
あの文面を読んだ人の好意的な感想から思う、これからの社会全般への警鐘である。
普段芸能人などのブログを好んで読むことはまずないが
たまたまツイッターにあった何人かのコメントーリンクからこれを読んだ。
最初の人の見解をイメージで伝えれば
「あっちゃー、それはないよおいおい…」という感じ。
僕も同じだった。
この人も沢尻エリカも、好きではない。
けれど、なるほどいいこと言うなと感じれば、
印象とは切り分けて納得したり賛同したりする尺度は持っているつもりだ。
ちょっと話は変わるが、イチローの、
カッコよく固めて血が通ってないインタビューは嫌いだが
野球選手の技術や精神力には最上級に尊敬しているのと同じ。
だから、どんな人が書いたものでも話でも先入観はなしで読み始めるよう、
仕事柄もかなり意識している。
さてこの高城氏の文面だが、少なくとも以下の2点はウソでしょう。
<今日街角で大きな君を見つけて、感涙しました>
<君が仕事に復帰すると聞き>
ウソであるという証拠など何もないが、
じゃあホントなのかとリアリティを求めてイメージし、
ウソとホントどちらにどの程度の可能性があるかと考えれば
大多数の人は<ウソだよそれは>という見解が出てくるはずであり、
読んだ人はほぼ全員が当然ウソとわかる文面だと思った。
<我が家では、仕事の持ち込み厳禁だから、お互いの仕事のことを話す事は一切ないし>
とあり、それはまあありえる。
ただし、それも程度問題でしょう。
だって、沢尻エリカは事務所解雇だ海外生活だとブランクがあり、
メディアを賑わわせる話題性じゅうぶん、
これだけセンセーショナルな復帰劇を、夫がまったく知らなかったと?
読んだ方々が自分に置き換えて考えてみれば「それはありえなないよなー」と思うだろう。
だって、自分の一生に関わるような重大案件について一度も話してないのかと。
そんな夫婦がいるならば、お互いに興味がなくなったか
反目し合っているとかそんなことではないか。
この文面の、「妻への愛」はすばらしいしことだし
それが溢れた心情そのものは本当だと感じる。
あたたかくていいなあと普通に思う。
しかし、この復帰劇はタイミングも打ち出し方もマスコミ対策もマネジメントも
おそらく高城氏が骨を折って仕込んだ作戦ではないかと、
証拠はない私見だがおそらく誰もが思っているはず。
だから、むしろそれ聞いて夫婦愛の強さとしていい話ではないかと思うぐらい。
<もし問題があるとしたら、きっとそれは「挨拶」じゃないでしょうか?>
とのくだりも二人のイメージアップ戦略としか感じない。
内容はその通りだと思うし、これまた日本中がわかっていること。
ならば、結婚してから日々過ごす時間で、直接言えばいい。
何もブログを通じて、しかも復帰に合わせて言わんでエエだろうが、
とノムさん口調になったのは、
ノムさんが新聞記者につぶやく言葉を、紙面通じて選手に伝えていたという
エピソードを思い出したからだけど、まさかその手法かよ、と。
直接こんなことを指摘してあげられないほど手を焼く妻とは
思えないと書こうとして、あ、あるかも?とも思ったが(笑)
ならせめてメールかツイッターのDMで伝えてあげるとか。
彼女のためにも。
たとえこの話がウソであろうがホントであろうが、
僕は興味がない有名人夫婦のことなので、この人たちを批判をするわけではない。
しかし、この文面を読んで賛辞の声や
「この人を見直した」的なツイートを見て、これはよろしくないなと思った。
なぜならこれは戦略としての文面であり、
もしそこにウソが混じっていたら看破し、
「虚偽はよくないぞ」という人として根本的に必要な批判感覚を持ってほしいのだ。
何も計算したメッセージを否定しているのではない。
有名人だから、その行為は当たり前だし、
誰だって、自分がやりたいことや目標に向かって
メッセージを発信していくのはいいことである。
ただし、そこにウソを混ぜるのは断じてよくない。
打算なく腹の底から発したメッセージは、
人間の本能的な判断アンテナに訴えかけてくるものがある。
しかし、この文面にそれは感じず、高城氏が腹を見せている印象はまったく受けない。
断っておくがこの感想は、文章自体の巧拙のことではない。
「いい文章だ」というコメントも見受けたが、
それがつづり方という意味でならとても納得できる。
最後から逆算して構築されていて、読み手へに届かせるリズムなども
構造として巧みだとは思う。
ただし、いうことが本物とは決して読み取れない。
また、戦略としても練ってあるのだろう。
ポスターが貼られてすぐあと、みんなが一番注目するでろう日に街で見たと言う設定。
だけどとにかく、ロジック以前の問題として
匂いをくんくんかげばこの内容が合成物質的香りだと感じてほしい。
ナチュラルでなくケミカル。
高城氏のことは、悪事に絡んでいるわけでもないし、
特に誰にも迷惑をかけているわけでもないだろう。
だからジャーナリストが深追いする必要などない、
スルーしていけばいいたわいない話。
しかしこれが、たとえば押尾問題など人が死んでいる事件だの、
公費横領や私腹を肥やすための謀議、市民のためにならない国家規模の問題などであれば、
メッセージに潜んだ「ウソ」を感じ取り、
自分なりに検証し、一人一人が「好み」ではなく「善悪」を判断していかねばならない。
そのためには、大切なニュース、レポート、論説に対する
審美眼を日頃から養っていく必要がある。
常にうがった見方をすることを奨励しているわけではないが、
鵜呑みにしないクセ、をつけよう。
素直さは大事だが「考えない素直さ」は危険である。
話は少し逸れるが、盲導犬育成現場では「利口な不服従」というキーワードがある。
たとえばこういうことだ。
目が見えない人が横断歩道で青になった音を聞き、犬に「GO!」と言ったとする。
その時、信号無視で車が向かってきていたら、
盲導犬は前に行かないように訓練していくのだ。
それと同じことで、即受け容れのクセをつけず、
何でもかんでも文句つける、「下なのに上から目線」の手合とは一線を画しつつ、
いいものはいい、違うものは違うと感じ取れるフィルターを脳と心に携えていきたい。
日々、自分に押し寄せてくる情報をジャッジする眼というか心。
生花を見て美しいと思うだろうが、
いかに本物そっくりに作られていても造花では心底美しいと感じないはずだ。
その感覚を養うためには、マニュアルはなく、
自分で検証し、外したり当たったりしながらじわっと堆積させていくしかないだろう。
新興宗教に惑わされて大金をつぎ込んでしまう人がいる。
マルチ商法にハマり友人を遠ざけてしまう人がいる。
言われるがままに株を買い大損する人がいる。結婚詐欺に遭う人がいる。
その方たちは気の毒なことではあるが、自業自得でもある。
自分の欲望や依存心から、相手のウソを見抜けなかったわけでもあるのだから。
およそ、有史以来、自分の欲のために美辞麗句を並べ人をだます人世界中に常にいる。
本当はそんな人がいない社会を求めたいが、事実上それは無理。
ならば、やはりまず他人の言い分をジャッジしないといけない。
昨年から今年にかけて犬や猫の殺処分問題を扱った本を作っていて、
その流れの中で、以前から漠然と知っていたことを考えさせられた。
福祉便乗商法に関わることだ。
殺処分は「いのちを軽んじる人間」の根絶すべき問題だ。
そして、犬や猫たちがかわいそうと思う人が増え、
そのムーブメントが高まりつつあると感じている。
そこで危ないのが、寄付したい、何か力になりたい、
と純粋に思う人々の善意をビジネスに利用しようとする人がいるのではないかということ。
サイトなどでは一見、純粋に社会貢献活動しているように見える団体が
よくよく見るとなんのためにどんな活動をしているのか見えてこないことがある。
寄付を募ってなくとも、たとえば可能性としては
マネーロンダリング的なことやもっとなにかしらお金に関わる結びつきがあるのかも、
とウソの証拠などないが、ホントとも思い難いケースがあった。
似た話で、僕がは直接は知らないが、
補助犬(盲導犬、聴導犬、介助犬)の世界でも
昔その類いのことがあったようだ。
今でも、全国の団体の中にそんなところはないことを信じたいが、
絶対にひとつもないとは言い切れないと思う。
かといって、限りなく全部に近い団体は純粋に活動しているはずなので
寄付などはどんどんしてほしいなと願う。
殺処分問題、補助犬問題に限ったことではなく、
人の福祉に関わること全般に関わる、注意すべき大事なことである。
献身的な気分になることに乗じて
巧みに言葉を並べ、偽善ムードで固めて、
だましてお金を得る輩は必ず現れるといっていい。
だから、目の前に現れるその人がいい人かそうでないかを見極めねば。
90%以上はいい人だろうが、残りの10%である可能性をちょっと考えたい。
そしてそのフィルターを携えておきたい最大の案件が戦争阻止だ。
たとえば、ナチスドイツのゲッペルス宣伝相、大本営発表、
その他、世界の歴史で実践されてきた数限りないプロパガンダが、
どれほど多くの人々を深い悲しみに落としてきたか。
人のいのちが失われていくことが、どんなことより重要な
人間が食い止めなければいけないことだ。
金銭欲、征服欲などを満たしたい一握りの人間に煽動されないためには、
地球上の一人一人がそれはおかしいんじゃないか、とまずは気づくこと。
大本営発表時代はニュースソースがそれしかなかった。
しかし今は誰でもいくらでも情報はつかめる。
だからこそ、見極めたら連なっていい方向に動ける。
そのためには、一人一人の審美眼を養わねば。