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2010.5.15 金沢部

犀川と浅野川は、男川と女川 —2つの川と「百万石的選民意識」

昨日、→『金沢学』断念話について触れたら勢いついたので
2つしか書いてない原稿をあげてみたくなり。。。
<初めて金沢を訪れる、ごくフツーのOL>あたりをターゲットと想定してます。
<『金沢学』見出し 81項目>はまた追ってUPしますね。

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<1−1>2つの川(街並み)

2つの川と「百万石的選民意識」
     ———犀川と浅野川は、男川と女川
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 「金沢でもっとも好きな景色はどこですか?」と聞かれると「犀川大橋の中ほどに立って医王山(いおうぜん)を望むところ」と答えている。僕にとってまっさきに思い出す金沢の情景は、兼六園でも武家屋敷でもなく、黒光りする瓦屋根を脇に配し、山に向かってすっと伸びる川面だ。犀川を含んだ景色は、特別に大きいわけでもなく際立った絶景ポイントもないが、じんわりと情緒の懐に忍び込んでくる。同じように、金沢出身者以外でも、室生犀星の印象から、金沢と聞いて川を思い出す人も多いのではないだろうか。
 室生犀星ゆかりの犀川と、東の茶屋街の横を通る浅野川が、市の中心に位置する兼六園を挟むように流れていて、このふたつの川が金沢市民にとって心のよりどころとなっている。土地の構造から、少し移動するだけでもどちらかの川を渡ることになり、子供の頃から日常的に川面を見下ろして過ごしているからだ。行き先の説明をする時に「上菊橋わたってすぐの坂を上がって」など、ごく当たり前に橋を基準に話すことも多いほど、暮らしに浸透している。
 観光的には東の茶屋街が有名となって浅野川も知られてきたとはいえ、いわゆる“金沢の顔”は犀川だと思う。こちらは、高い瀬音、景観の大きさから、男川と呼ばれてきた。とは言っても、たとえば信濃川のような雄大なスケールというものではない。きらびやかなわけでもない。やさしさを芯に携えた質実剛健な男、という趣である。現在は、川岸が整備され遊歩道のようになっていて歩きやすく、ここを散歩する人たちの姿が絶えない。その光景からも、京都の鴨川を小さな規模にした感じだ。
 文学好きであれば、詩人の室生犀星が生まれ育った雨宝院が川の袂にあることをご存知かもれない。また、同じく詩人・中原中也が幼い頃に近くに住んでいたこともあり、犀川大橋近くの「神明宮(しんめいぐう)」という神社の境内でみたサーカスの記憶が、のちに「サーカス」という詩に昇華したといわれている。
 犀川に比べて線が細い浅野川は女川である。やさしい流れで、瀬も荒れない。ひがしの茶屋街の横に出て見れば眼下に流れが見える感じの犀川に対して、このあたりはすぐ下に川面がある。やはり京都でたとえれば、河原町裏の高瀬川をもう少し広くした雰囲気だ。 文学者でこちらの出身であれば泉鏡花や徳田秋声。山の作家として知られる深田久弥も一時期近辺に住んでいた。彼は作品の中でこう書いている。「犀川は山ノ手式であるのに反し、浅野川は内省的で下町式とでも言おうか。犀川は洋画に似合うが、浅野川は日本画が適している。」(『きたぐに』)。鋭く的を捉え方で、対照的なふたつの川を表現している。
 そしてここからは僕の主観でしかないが、金沢の地元意識がふたつの川によって大きく二分されているように思う。僕は、生れてからずっと犀川より外側で暮らしていたので「犀川の人」だと思っているし、浅野川近辺や外側の人なら「浅野川の人」なはず。間の地区は、兼六園を挟んでどちらに近いかで別れている感じだ。明確に言われているわけではないが、市民には多少なりとも意識を持っていると思う。僕がそう感じ始めたのは、高校生になり浅野川より外側の学校まで通い始めてから。友人たちの中でも、直接的な話題云々ではなく、漂う“匂い”のようなものが違っていた。たぶん金沢の人ならどことなく「どっちの人か」という意識は根付いていくのだろう。
 この、ふたつの川に関わる、同じ市内でさえ「どっちだ」という地元意識。実はこれこそ、金沢人特有のプライドの高さ、排他的=ケツの穴の小さいところ(失礼)であり、「百万石的選民意識」の象徴なのだ。これからこの本に出てくる、金沢の人、街、歴史などのすべてのことがらについて、そこを踏まえながら読んでいただくと見通しがよくなると思う。

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